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2006/01/30

残照

残照

Flickr!では"stone"と言うタイトルを付たのですが、ここでは「残照」としてみました。カメラは*ist DS2でレンズはsmc PENTAX-FA28mmf2.8AL。絞りはF9.5、シャッタースピードは1/250です。

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2006/01/26

明日に架ける橋

さっきたまたまNHK-BSを見ていたら、ハイビジョン特集「世紀を刻んだ歌『明日に架ける橋〜賛美歌になった愛の歌』」と言う番組をやっていました。明日に架ける橋、と言えばサイモン&ガーファンクルの最も有名な歌。私も中学生だったか高校生だったかのときにS&Gにはまった時期があって、この曲も何度も聞いたり歌ったりしていました。この番組はこの曲の背景や現代的な意味について掘り下げた、と言う内容となっていました。

中身をかいつまんで書いておくと(あんまり真面目に見ていたわけではなかったのですが)、この曲はS&Gが教会で聞いたゴスペルが元になったのだそうです。ゴスペルとは「福音=よい知らせ」の意で、イエス・キリストが告げた救いのメッセージのことだ、とのこと。Bridge over deep water(深い水に架ける橋)と歌われていた原曲をS&GがBridge over troubled water(荒れ狂う水に架ける橋)と読み替えて作ったのが、この「明日に架ける橋」なのだそうです。

ベトナム反戦運動など激動期のアメリカで大ヒットしたこの曲は、アパルトヘイトで揺れていた南アフリカで独自の発展を遂げます。それもS&Gの歌でではなく、黒人女性歌手アレサ・フランクリンの歌として。「僕が体を横たえるから、荒れた海にかかる橋のように」という歌詞に共感した黒人居住区の人々が、教会の賛美歌として口ずさむようにまでなったとか。ゴスペルからポップミュージックへ。そして再び賛美歌へ。アメリカの若者を勇気づけたこの歌は、南アフリカの黒人が差別を打ち破るための力になっていったのだそうです。

逆巻く水に架かる橋のように、僕が身を投げかけてあげよう、と歌い上げるこの歌は、困難に立ち向かおうとする人に対する優しいメッセージの歌です。そして同時に、みんなで助け合って乗り越えていこう、と言う気持ちも込められている、と思います。一人一人が「勝ち組」と「負け組」に分断されて、力を合わせて何かに立ち向かうと言うことが難しくなっている今の日本。この歌は、こんな日本にこそ必要なのかも知れません。

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2006/01/24

雪の京都

Komyoji

このところの冷え込みで、昨日の京都は雪でした。宇治では小降り程度だったのが、出町柳まで行ったら結構な降り。駅の近くの光福寺も写真のようにすっかり雪化粧をしていました。

雪の京都、と言うと写真の素材としては非常に魅力的なので、降雪が落ち着いたらちょっと出かけてみようかな、と思っていました。そしてその昼頃期待通り雪が止んだのですが、仕事が忙しかったので出遅れたらもうだめ。あれほど積もっていた雪もあっと言う間に消えてしまって、後にはなんの変哲もない冬の景色が広がっていました。残念!!

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2006/01/21

ニューオーリンズ・トライアル

ジョン・グリシャムの「陪審評決」を原作とする2003年の作品なのですが、いやー、久々に面白い映画を見た、と言う感想です。

ニューオーリンズの証券会社で起きた銃の乱射事件。ここで殺された犠牲者の未亡人が、犯行に使われた銃の製造物責任を問う民事訴訟を起こしたのですが、その裁判を巡って原告と被告だけでなく、陪審員の1人も加わった丁々発止の法廷外の戦いが勃発する、と言う話です。

原告側の弁護士にダスティン・ホフマン。被告側に立つ「陪審コンサルタント」役にはジーン・ハックマン。2人の名優の対決の話になるのか、と思えば話はどんどん展開していきます。そして、最後は意外な結末。実はある程度予想通りだったのですが、そこに落とし込むまでの目まぐるしい展開が素晴らしい。サスペンス仕立てで最後には「なるほど」と思わせる演出にはうなりました。そしてその2人の名優の間で活躍するのがジョン・キューザックとレイチェル・ワイズ。レイチェル・ワイズは「ハムナプトラ」で見たことがあったのですが、その時とは違って知的で意志の強い女性としての演技は素晴らしかったと思います。

ところでこの映画の背景には、アメリカの銃社会と陪審員制度と言う2つの深刻な問題が横たわっています。特に陪審員制度は私たちには馴染みのないものですが、「市民の義務」と言う建前の下でこのような現実が存在する、とは知りませんでした。もちろんこれは作り話で、実際にはそんなことは無いもかもしれません。でも「陪審コンサルタント」と言うのは本当に存在する職業だそうなので、多かれ少なかれこんな感じの陪審員への「工作」はあるのではないかと思います。日本でも同様の制度ができるそうですが、それが果たしてどのような展開になるのか。日本の「市民」の1人として、注視しておく必要がありそうです。

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2006/01/16

友の死

友、と言うよりは「先輩」なのですが、私が学生時代から良く知っているOさんが今日の夕刻亡くなりました。享年(私の記憶が正しければ)45歳。まだ1歳の子供を残しての、早すぎる死でした。

Oさんと知り合ったのは、たぶん私が大学の2回生か3回生の時だったと思います。皮肉屋で、ペシミスティックな人、と言う第一印象だったのですが、しかし実際には社会のことや周囲のことを真剣に考えていて、他人のために働くことを厭わない人でした。大学生協や学生自治会の活動などをしながら、学問の事よりも世の中の矛盾について考えているような人でした。卒業後はとある京都の私学の先生になって、高校生に物理を教えていました。卒業後に京都を離れた私は年賀状をやり取りするだけの関係だったのですが、数年前にようやく結婚した、と聞いて「ああ、あのOさんにもようやく幸せが来たか」と思ったのを、ついこの間のことのように覚えています。

しかし、その頃からOさんの身体は徐々に病魔に冒されていたのでした。肝硬変。肝細胞が再生機能を失って、肝臓が徐々に役に立たなくなって行く病気です。たいてい慢性肝炎から変化することが多いのだそうですが、Oさんは原因不明だったとのこと。何年かはだましだましやっていたものの、ついに昨年、務めていた高校を休職して治療に専念することになりました。

「沈黙の臓器」と言われる肝臓は、自覚症状が出てから治すのは非常に難しいところです。Oさんも治療法を探して、あちこち転院もしていたとか。そしてついに生体肝移植以外は方法がない、ということになって、京大病院に移ってきたのが昨年の8月のことでした。

生体肝移植はドナーがいればすぐにできるか、と言えばさにあらず。肝臓による解毒機能が低下していたOさんは、感染症に罹ってなかなか手術にかかることができませんでした。手足のむくみ。腹に水がたまる症状。黄疸。肝硬変に伴う様々な症状が出る中で、何とか手術まで頑張ろうとしていたOさん。9月の時点で「あと数週間しか保たないかも」と言われながら2か月間頑張って、ようやく11月に手術にこぎつけたのです。

幸い、手術はドナーとなった奥さんも含めて成功しました。Oさんもいくつかの峠を無事越えて、着々と完治への道を歩んでいました。リハビリを続けながら、移植した肝臓が定着するのを待っていました。しかし、ここでもやはり感染症が彼の行く手を阻みました。その上、脳梗塞を起こしてしまって半身が動かなくなり、最後は意識もはっきりと戻らないままに旅立ってしまいました。

移植と言う治療は、再生機能を失った肝臓を治すには最後の手段、なのだそうです。しかし他人の臓器を身体に入れるということは、新たな戦いを開始すると言うことでもあります。だから、移植医療が大変なのは、手術前よりもむしろ手術後。「こんなに手術後が大変だとは思わなかった」と感想を漏らす患者さんも多いのだそうです。ところが私はそんなことは知らなくて、Oさんはすっかり良くなった、と思い込んでいたのです。

今日の夕方、私はたまたまOさんの事を思い出して、ああ久しぶりにお見舞いに行こう、と病院に足を向けました。しかし、それはわずかに遅かった。私が着いたときには、Oさんは既に逝ってしまった後でした。思えば私がOさんのところに行こうと思ったタイミングは、ちょうどOさんが旅立とうとした時だったのかも知れません。最近顔を出していなかった私に対して、たまには来ないといけないよ、と呼び出したのかも知れません。手術の時を待ちながらも、昔と全く変わらない口調で話していたOさん。表面には出さなかったものの、きっとずっと苦しくて、辛い思いをしていたに違いありません。これまでずっと頑張ってきたんだから。自分と家族のために耐えてきたんだから。あとはゆっくりと、お休みください。

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2006/01/08

岡崎

okazaki

 先週末、愛知県の岡崎に出張で行ってきました。昨夏に白馬で行われた「水と生体分子」の科研費の研究会の続きで、「岡崎コンファレンスセンター」と言う会議場が目的地でした。

 なぜ岡崎か、と言うとそこには「自然科学研究機構(NINS)」と言う組織があるからです。物理で言うとつくばにある「高エネルギー加速器研究機構(KEK)」がそれに対応するのですが、要するにお金のかかる装置を1か所に集中して、それを全国の研究者が共同で使うわけです。良い装置を持っていれば良い研究者がいて良い研究もできる、と言う寸法で、言わば研究者の総本山。KEKはほぼ物理学だけの「総本山」ですが、NINSは天文(国立天文台)から化学(分子科学研究所)、生物学(基礎生物学研究所)や医学(生理学研究所)、そして核融合(核融合研究所)までカバーしたスペクトルの広い組織です。これらのうち岡崎にあるのは分子研と基礎生物研、そして生理研。つまり化学から生物関係の総本山に行ってきた、と言うわけです。

 岡崎市は名古屋から名鉄線で40分ぐらい。たぶん名古屋のベッドタウンなのだと思います。特急の止まる東岡崎駅を出ると、商店街はほとんどなくてすぐに住宅地。そしてその住宅地を縫って坂を上がっていくと、その奥にこのNINSがある、と言うロケーションになっています。KEKはつくばの北の端の人里離れたところにあるので、それに比べるとずっと良いところにあるな、と思いました。

 因みに岡崎城は徳川家康が生まれたところだそうで、江戸時代には「神君出生の城」としてかなり神聖視されていたそうです。しかしその反動でもともとの岡崎城は明治維新とともにとりこわされたらしく、その後は堀と石垣があっただけだった、とのこと。今ある天守閣は昭和35年に復元された鉄筋コンクリート造りのものだ、とのことです。

 ただ、やはり城下町は城があってこそ華がある、というもの。化学・生物学の総本山の方は一般ウケと言う意味ではイマイチなので、復元岡崎城とその公園はこの街のシンボルとして価値がある、と言えるでしょう。

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2006/01/01

除夜の鐘〜黄檗山萬福寺

oubaku

 家族で年末年始を京都で過ごすのは今回が初めてなので、昨夜は「紅白」が終わった後に除夜の鐘を撞きに行ってきました。

 京阪宇治線とJR奈良線の黄檗駅から歩いて数分のところにあるこのお寺は、江戸時代に中国からやってきた隠元禅師が1661年に開創したと言う歴史があり、黄檗宗の大本山なのだそうです。精進料理として知られている「普茶料理」を食べることができると言うことで結構有名な観光スポットです。近くの観光地と言うのは、いつでも行けると思うと案外行かないものですが、この萬福寺もそんな感じ。これまですぐ前まで行ったことはあったものの、中に入ったことはありませんでした。

 我々はなるべく近くへ、と思って行ったのですが、現地に行ってみるとたくさんの車が駐車場だけでなく周囲の道路にも溢れていて、案外遠くからも来ていたのではないかな、と言う感じ。私たちが到着したのは12時15分ぐらいだったと思うのですが、約600人に500円で配布される「鐘撞き券」は8割方配布済みでした。すぐに鐘つきの列に並んで6人一組で「ご〜ん」とやって、それから「大般若会」が行われていた法堂(大雄法殿だったかも)に行ってお経で頭と肩を叩いてもらいました。そして「鐘撞き券」に付いていた券でそばを食べておしまい。500円は高いかなとも思ったのですが、そばを食べておみくじ付きのだるまをもらえて、なかなかお得だったかも知れません。今年は新年早々から京都らしさを味わうことが出来ました。

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